太陽の匂い?

 今日の午前中は晴れており、洗濯物がよく乾いた。時間が経って干していた洗濯物を取り込んだ時、バスタオルがとてもいい匂いだった。無意識にこれは「太陽の匂いだ」と思ったが、よく考えると太陽の匂いとは何なのか。

 

 太陽の匂いという概念は何となく存在するものの、それがどういったものなのかは説明が難しい。それに太陽の匂いとはいうものの、それを感じるのは洗濯物が大半で日常歩いていて感じることはないのだ。

 

 それなら太陽の匂いではなく洗濯した物自体の匂いや、柔軟剤、洗剤の匂いではないか?と聞かれるとそれも少し違う。洗濯した物自体の匂いであるなら、洗濯する前でも同じような匂いになる。洗剤や柔軟剤の匂いもまた太陽の匂いと表現するものとは違う。洗濯してすぐの濡れた状態ではそれを引き出すことはできない。日光に当たってよく乾いた洗濯物だからこそ引き出すことができる匂いなのだ。

 

 調べてみると太陽の匂いという概念こそ存在するもののそれがどういったものかを細かく定義しているようには見られなかった。私は科学に関する知識は一切持ち合わせていないため、これを研究することは難しいしそのような予定もない。この記事を書いた理由はたまたま気になった内容を記録しておきたかっただけなのだ。

 

 「洗剤、柔軟剤の匂い」という正体がはっきりしている共通認識されるものではなく、「太陽の匂い」という正体がわからない上にぼんやりと想像できるものを認識できるような感性を持っていると何の変哲もない日常、出来事から少し違った視点でものを見ることができるのだろうか。

 

思考

自分の思っていることを人にありのまま伝えるというのは実に難しいことである。だが、その気持ちを吐き出さずに心にとどめ続けるといつしかパンクしてしまう。そういったありのままを曝け出し、自分で後に見返す場所としてブログを始めた。

 

私はコンプレックスを持っている。短い人生でありながら既にその何割かは人に胸を張って語ることのできない内容である。罪を犯したなどではないがとにかくコンプレックスなのだ。

ある日親と電話をした。最初は大した話ではなかったが流れで近況を語ることになった。最近はあまり上手くいっておらず、悩みもいくつかある。しかしそれを親に話すのは恥ずかしいと私は思ってしまう。もし親に悩みを打ち明けたらきっと親身になって聞いてくれるだろう。私は自分の両親を誇りに思っているし、自分を大切にしてくれていると感じている。だからこそ、そんな親に自分なんかのくだらない悩みを打ち明けて余計な考え事、心配をさせたくないと思ってしまうのだ。ましてや「私は既に自分の人生にコンプレックスを抱えています」など口が裂けても言えない。親と話すにあたって一番避けたいのは親に負の感情を与えてしまうことだ。昔は反抗期でたくさんの迷惑をかけたりしていて今更何をいうかと自分でも思うが、心が成長したのか今では親のありがたみというものをちゃんと理解しているつもりである。そうして親には悩みをうっすらと話すものの本質的なことは話していない。「自分が悩んでいる対象」については話すものの、「自分がどう悩んでいるか」については話すことができない。恥ずかしいからなのか、親に変な心配をかけたくないのか、理由はわからない。ただ話すことができないのだ。

 

つらつらと書いてきたが結局どうすればいいのか私にはわからない。コンプレックスを抱えることになったのも自分の選択であり、悩むことになったのも自分のせいである。そういった、何が原因で現状に至っているかを理解はしているものの、それを真っ向から受け止めることができない心の弱さなのだろうか。

この記事を見返したときに私の考えは変わっているのだろうか。